DIALECTS
このサイトでは主に標準東アルメニア語(Modern Eastern Armenian)を扱っていますが、実際のアルメニア語は驚くほど多様な方言の集合体です。ここでは、方言がどのように分かれてきたのか、そしてそれがどう調べられてきたのかを、学習の背景知識としてざっくり紹介します。
アルメニア語の書き言葉の歴史は、大きく3つの時代に分けられます。405年のアルメニア文字創案からおよそ11世紀頃までの古典アルメニア語(グラバル)、12〜16世紀にキリキア・アルメニア王国の行政言語として使われた中世アルメニア語、そして17世紀以降に成立した近代アルメニア語です。近代アルメニア語はさらに、東アルメニア語(このサイトで扱う標準語の基礎)と西アルメニア語という、それぞれ異なる方言的背景を持つ2つの標準語に分かれています。
古典アルメニア語は、翻訳者や文法学者たちがギリシャ語の文体に寄せる形で人為的に整えた面が強く、当時の実際の話し言葉がどんなものだったかは、実はあまりよく分かっていません。話し言葉としての方言の姿がある程度たどれるようになるのは、あとで触れる7世紀頃の音韻変化以降のことです。
アルメニア語方言学の父ともいえる存在が、20世紀初頭に活躍した言語学者フラチア・アチャリアン(Hrachya Acharyan)です。彼は1909年にアルメニア語方言の分類地図を発表し、方言を現在形の作り方によって大きく3つのグループに整理しました。アチャリアンはさらに、包括的なアルメニア語方言地図帳の作成を長年の夢として語っていましたが、当時は「そこまで壮大な事業は想像もできない」としながらも、簡易な言語地図なら作れるはずだと考えていたそうです。
1972年には、ゲヴォルグ・ジャフキヤン(Gevorg Jahukyan)が、音韻・文法上のおよそ100の特徴をもとに、西アルメニア地域72地点・東アルメニア地域48地点、合計120地点の方言データを比較する多特徴分類を発表しました。ただしこの分類は表やチャートによる整理が中心で、方言的特徴の地理的な広がりそのものは、地図の上には表現されていませんでした。方言学の研究に本格的に「地図」を持ち込む、いわゆる言語地理学的な手法がアルメニア語研究に取り入れられるようになったのは、比較的最近のことなのです。
アルメニア語のさまざまな方言を大きく特徴づけているのが、動詞の現在形の作り方です。古典アルメニア語の合成的な現在形が使われなくなったあと、各地の方言はそれぞれ独自に新しい現在形を発達させました。アチャリアンはこれを3つのタイプに整理しています。
このうち、標準東アルメニア語が採用している -ում 型は、もともと「場所」を表す処格の語尾に由来すると考えられており、直訳すると「話すことの中にいる」のようなニュアンスから発達した表現だとされています。
アルメニア語の東西の境界は、実は一本の単純な線ではありません。言語学者ヨス・ヴァイテンベルグ(J. Weitenberg)の研究によれば、少なくとも7世紀まで遡れる、東西の分類とは別の南東・北西の分岐線が存在します。その代表例が「アチャリアンの法則」と呼ばれる音韻変化で、有声の子音のあとで後舌母音が前寄りの母音に変わる、という現象です。この法則の効果が及んでいるかどうかで、ヴァン・ホイ/ウルミア・カラバフ方言などの南東グループと、それ以外の中央・西部グループとが分かれます。興味深いことに、この法則の痕跡は、地理的にはまったく離れたシリア・キリキア方面の方言にも見られます。
一方、現在よく知られている「東西」の大まかな境界は、1514年のチャルディラーンの戦い以降、オスマン帝国領(西)とペルシャ・のちロシア帯領(東)という政治的な境界線とほぼ重なっています。方言の広がりは、言語内部の変化だけでなく、帝国の版図や交易路といった歴史的な文脈と深く結びついているのです。
ジャフキヤンの分類(1972年)などをもとに、代表的な方言グループを西・東に分けてごく簡単に紹介します。
1915年のアルメニア人虐殺(ジェノサイド)は、アルメニア語の方言分布そのものを大きく変えてしまいました。オスマン帝国領内で話されていた西アルメニア語系の方言の多くは、話者コミュニティごと失われるか、離散を余儀なくされました。生き残った話者たちの一部は、それ以前の1828〜29年の露土戦争、1826〜28年の露イラン戦争の際にすでにロシア領(現アルメニア)へ移住していたため、今のアルメニア領内には、本来は西部・北東部にルーツを持つ方言の「飛び地」的なコミュニティが点在しています。
現地名そのものが変更されてしまった地域も多く、当時の記録にある地名から実際の場所を特定すること自体が難しいケースも少なくありません。話者が高齢化し、コミュニティが小さくなっている方言も多いため、今のうちに記録を残すことがアルメニア語方言学の急務とされています。
1975年、アルメニア科学アカデミー言語学研究所に方言学部門が設立され、H. ムラドヤンの主導のもと「アルメニア語方言地図帳(Armenian Dialect Atlas, ADA)」の編纂が始まりました。1976年から始まった資料収集では、語彙→文法→音韻という、一般的な言語記述とは逆の順序で調査項目が設計されています。これは、方言調査の初期段階ではまだ聞き取りの精度が上がりきっておらず、細かな音韻の違いよりも語彙レベルの違いのほうが確実に記録できる、という実践上の工夫だそうです。
これまでに、東西合わせておよそ500地点分の方言資料が収集されています。西アルメニア語の資料の多くは、ジェノサイド後にアルメニア共和国へ逃れてきた西アルメニア人からの聞き取りによるもので、なかにはその地域の方言を話せる最後の1人、というケースもあったといいます。収集された動詞関連の資料は、1990年代にデータベース化が進められ、これをもとに26枚の言語地図が試験的に作成されました。ただし、500地点すべてを1枚の地図に収めるのは物理的に難しく、また西部地域については地名自体が変更されているため位置の特定が難しいなど、地図化には現在も多くの技術的な課題が残っているとのことです。
このサイトで扱っている文法・語彙は、あくまで標準東アルメニア語(アララト方言をベースに、19世紀にアストラハン・モスクワ・トビリシの教育機関で意識的に整備された言語)です。実際に現地を旅したり、年配の方と話したりする機会があれば、教科書どおりではない語形や表現に出会うことも多いはずです。そうした違いに出会ったとき、「これは方言の違いなのかもしれない」と気づけることも、語学学習の楽しみのひとつだと思います。
本ページは上記2件の学術資料をもとに、当サイト運営者が学習者向けに要約・再構成したものです。原文からの逐語的な引用は行っておらず、詳しい調査手法やデータの詳細に関心のある方は、原論文・発表資料を直接ご参照ください。